『楽しんで英語学習!』や『絶対に続けられる英語学習!』といった売り文句は枚挙に暇がありません。確かに、英語を楽しんで学ぶことができれば、それはとても素晴らしいことです。しかし果たして、本当に『楽しんで英語を学ぶ』などということが可能なのでしょうか。

僕自身のことを言えば、自分は楽しんで英語を学ぶことができていると思います。僕は英語の勉強をすること自体が好きですし、英語の勉強をすることが仕事や人生と密接に関わっているからです。ただ、この点については僕が特殊なケースである(特別ではなく、特殊である)という可能性もあると考えています。一般的には、英語の勉強をすることを単純に楽しむというのは難しいのではないかと。

例えば、数学の勉強が楽しくて仕方がないという人や、歴史の勉強をするのが楽しくて仕方ないという人も世の中にはいます。もしかするとあなたの身の回りや、学生時代のクラスメートにもそういった人がいたかもしれません。しかし僕は、数学の勉強や歴史の勉強を、特別楽しいとは思いません。必要であれば勉強はしますし、勉強することによって知識が増えることを楽しいとは思えますが、それはあくまで勉強することによるスキルアップが楽しいのであって、数学や歴史の勉強自体を、それを好きだという人と同じ情熱で好きだと感じるのとは違うと感じます。例えば、必要に迫られなければ、僕は数学や歴史の勉強を自分から毎日勉強したりはしないでしょう。

それと同じように、僕が英語の勉強を好きであるからといって、他の人も無条件に英語の勉強を楽しめるかというと、それは話が違うのではないか、相手の立場に立った指導とは言えないのではないかと、常に考えています。

『楽しんで英語学習!』や『絶対に続けられる英語学習!』という売り文句に僕が懐疑的なのは、何かを楽しむことを外部から強制することはできないからです。楽しむかどうかというのは、心の持ちよう、つまりその当人の態度や考え方によるものです。『もっと楽しんでやりましょう』と言っても、楽しくないと感じるものを無理矢理楽しいと感じることは難しいでしょう。

もちろん、『面白くないな』と思うものの一部にでも、『ここだけは面白いな』と感じることができる場合がほとんどで、そういった『面白いところ探し』をするのは勉強や仕事などにおいて重要なスキルであると個人的には考えています。しかし、「面白いと思えるところを探してみましょう」という指導が可能だとしても、「楽しみましょう」という指導は、本質的には投げっぱなしと同義であると思うのです。

これと同様に、『楽しんでできる英語学習を探したい』だとか、『楽な英語学習を探したい』と考えてしまうことは、自分から楽しいことを見つけることを放棄している態度でもあります。与えられたがっているうちは、何かを本気で学ぶことができません。

逆に言えば、『この勉強は楽しいな』とか、『これは興味深いな』と誰に強制されるでもなく感じることができているなら、独学や自学自習における良いコースに乗っていると言うこともできるでしょう。僕がメンタリングによって英語学習を指導するときには、『面白い』や『興味深い』と思えそうな素材やポイントをできるだけ多く共有することで、そこに勉強する上での楽しさそのもの、ステップアップしていく達成感を"見出して"もらえる指導ができればと考えています。