英語学習に限らず、学習というものの本質が何であるかというと、そのひとつに「何を知らないのかを理解し、知らないことを減らす」という考え方があります。

多くの場合、学習は「ものを知ること」と理解されます。しかしこの理解だと、「何を知らないのかを理解すること」という前段階の印象が薄くなってしまうという欠点があります。言い換えれば、学習には「何を知らないのかを理解する」と、「知らなかったことについて理解する」というふたつの段階があると言えるでしょう。「今まで自分はこれを知らなかった、だがこれからは知っていると言える」と言えるようになることが、学習の効果のひとつなのです。

この「何を知らないのかを理解する」という段階は非常に重要なのですが、厄介なものでもあります。それは、『自分が無知であること』を認めなければいけないということを含んでいるからです。通常、誰であっても、自分が無知であること(つまり、自分の能力が低いこと)を突きつけられるのは気分が良いものではありません。だからこそここに目を瞑り、「新しいことが分かった」というところばかりがハイライトされてしまうことになりがちです。

しかし実際のところ、自分が何を知らなかったのかを理解することは重要なことです。これを理解することでどのような勉強が必要かが分かってきますし、分からないことについて"どの程度"理解できたかも把握し易くなるためです。

僕自身、メンターとして活動しているときも、あるいは一学習者となっているときも、加えて言えば翻訳のプロとして活動している場合であっても、知らないことを『知っている』と言わないように決めています。分からないことがあるときには、『分からない』と認め、それがどうして分からないのか(僕の理解力のためか、それとも判断材料が少ないからか)といったことを考え、それを正直に伝えます。

勉強をすることとは、自分の無知の領域を正しく認識し、それを少しでも狭めていくことです。「自分はなんてものを知らないんだ」と思えるうちは、まだまだ伸びしろが残っていて、これからも少しは賢くなれるチャンスがあると考えることができるかもしれません。