〈生きる力〉を見つけ出すお手伝い。家庭・学校・職場など、恵まれない環境で過ごさざるをえなかった方に。【自己嫌悪】の底に埋もれた〈生きる力〉の在処を教えます。
できること
心の悩み相談よりも、もう一歩も二歩の踏み込んだものです。
「私はなぜこの世に生まれてきたのか?」
対話を通じて〈生きる力〉の源泉にまで遡り、根源的なところから疑問を解消をするお手伝いをいたします。
あくまで「お手伝い」です。
方法論は提示させていただきます。
独自の方法で本を読み込むことによって、気づきを深め、ご自身の〈心〉へ分け入っていく道しるべとします。
一般には難解な概念(たとえば、仏教でいうところの「空」など)を用いますが、直感的な理解へ落とし込めるように工夫がなされています。
手引きはいたします。ですが歩むのは相談者ご自身です。
自身の〈生きる力〉を信じて前へ進むための対話をご提供いたします。
メンタープロフィール
レビュー
井ノ上さんにメンターしていただき、救っていただいたことについてレビューしたいと思います。
ASDの夫が共感してくれず、鬱状態のカサンドラ症候群になっていた私を、井ノ上さんに相談させていただいた所から話が始まります。
私は最初、ASDの夫の氣持ちが分かれば解決できると安易に思っていました。なんと浅はかだったのでしょうか。
私と夫の関係は、私の幼少期の親子関係、つまり愛着障害からきていると、井ノ上さんに見抜かれました。全てはそこからです。
私は娘に一体化し、自分を投影して、私に見立てた娘を全力で幸せにしようとしていました。負は全て、母である私が背負えばいい、と思っていたのです。
娘は幸せに育っていますが、次第に私の負が見えてきてしまい、影響されてしまうのですね。
このままではいけないと、井ノ上さんは私に愛着障害の学習をギフトしてくださいました。それはどこかに書いてある借り物の言葉や見せかけのテクニックではありません。井ノ上さんが自ら体得されて血肉となった、自ら創造された私にだけ伝わる、生きている言葉です。それは言葉ではないのかもしれません。
とても懐かしく癒される感覚でした。
ですが、深いところを揺さぶられるので、歪んだ感性になっていた私は、この心地よい感覚に溺れてはいけないと、何度も不幸な方に逃げようとしました。それでも毎回井ノ上さんは引き止めてくれました。
自分を取り戻せと言われた氣がしました。私の中で次から次へと氣づきが起きました。
井ノ上さんが氣づきを促してくれるのです、あらゆる方法で。
その核心は、私が抑圧されてやれなかった事、絵を描けという事でした。
その絵が一枚完成してみて思う事。
私は、娘のためなどと言いながら、娘に、"幸せな私"を生きてもらおうと逃げていて、自分を生きていなかったんですね。
涙が出てきます。娘と私は違う。私は私の中で生きる事が幸せなんだ…。初めて分離できた氣がします。
この自分の感覚、思いださせてくれたメンター井ノ上さんに感謝しかありません。ありがとうございました。
メンタリングの中でも申し上げましたが、友奈さんが固められていた【決意】は凄まじいものだったと思います。それは「なんとしても自分の娘は幸せにする。自分の心を削ってでも」でした。その【決意】はこれまでのところ成功しているように思えますが、問題はその先。母子が一体化して離れることができない「共依存」の怖れがあるのではないかと思いました。
友奈さんがそうした【決意】を固められたのは、ご自身でも記しておられるように幼少期の影響です。友奈さんがパートナーとしてASDのご主人を選択されたのも人間を避けたかったからでしょう。基本的にあまり人間に関心を持たない傾向の人を選ばれたのはいいけれど、いざ、深く関係性を持ちたいと願うとご主人の傾向が仇となってうまく行かない、、、とても不運な巡り合わせだったと思います。
現在は、抑圧されていたご自身を取り戻す道を歩み始まることが出来ていると感じます。あともう一歩、自力で歩むことができるだけの確信を見出せれば。それほど遠い未来のことではないと思います。
「言葉」とは何か、どう使っていくのか等を対話しながら考えていく事で、言葉の向こう側を感じとる嬉しさを知り、人間の本能というものを意識するようになりました。それを無視して理性に縛られていた自分を知りました。そういう社会で生きていたのだから仕方ありません。
以前、ヨガ療法の学びの中で「現代社会では本能のままに生きられない、どうしてもストレスにさらされる」とありました。本能のままに生きられる社会なんて、あるのだろうか?あったのです。それは贈与が本能によって回ってく社会。言葉ができた時のように使い、社会もできたように作って、私は生まれたように生きればいいのだと…。出来そうだ!と気づいた時、生きる事から、そして人間でいることからも逃げてきた私が、自分の存在を愛おしく思い、目の前に見えてなかった道が拓けた、そんな感覚が生まれたのです。
>言葉ができた時のように使い、社会もできたように作って、私は生まれたように生きればいい
という気づきに自ら至ることができること、私もfuyuhoさんとの対話を通じて、改めて確認することができました。
ご自身の存在が愛おしく感じられることは、そのまま他者の存在を愛おしく感じられることへ拡張していきます。この拡張こそが人間としての成長・成熟というもの。文明社会では「本能のままに生きれない社会に適応し、他者より上位に立つ」ことが成長だとご認識されていますが、そうではありません。
fuyuhoさんの中に気づきが生まれ、私の同志となっていただけたことを大変喜ばしく思います。