僕の英語の勉強方法は非常にスタンダードなものだと自認していますが、仮に特殊なところがあるとすれば、それは、知識として覚えるべき事柄と、センスや感覚で解決できる事柄をはっきりと区別していたということでしょう。

例えば「英文で何かを書けるようになりたい」と考えたとき、まず思うのは文法という知識が重要だということです。文法は、言語運用において共通的に見られるルールですから、とりあえずこのルールを覚えておき、このルールに従っておけば、大きく間違えることはないというわけです。無為無策で単語やフレーズを覚えるよりも、まずは文法を徹底的に覚えるべきだと考えました。

もちろん、文法の勉強などというものが一朝一夕で成るものであるはずもなく、「ここまでやれば文法の勉強は終わり」というようなこともあるはずもありません。しかし、およそ土台と言えるような文法は、偉大なる先人が本などにまとめてくれています。そこで、分厚い文法書を一通り最初から最後まで通して読み、英文法に関する自分の理解の甘いところを潰しにかかりました。

一方、文法をしっかりと覚えれば『良い文章』が書けるかどうかは別問題です。日本語のネイティブが誰しも文豪や小説家になれるわけではないように、また『良い文章』の定義がその時々によって違うように、英文法を理解していることで書けるのは『正しい英語』であって、必ずしも『良い文章』ではありません。

こうした『良い文章』を書くにはどうすれば良いか。これは言ってしまえば、センスの問題です。

ここで言うセンスとは、「適切な方向性や力加減を瞬時に理解できる能力」と定義できます。ある状況に立たされたとき、「じゃあこういう書き方をすれば良いんだな」と瞬間的に判断することができるようになるには、センスを磨く必要がある。つまり、色々な文章を読み、名文と呼ばれるものを読み、様々な英語表現に触れながら、「なるほど、こういう表現もあるのか」と学びつつ、自分なりの表現を模索していくことが必要だと思ったのです。"我々は巨人の肩の上に立つ矮人である"とは、よく言ったものです。

他にも、例えば「冠詞の使い分けは、ここまで文法的に説明できる。ここから先は感覚的な問題だ」とか、「この単語はおよそこういう使い方をすると言える。ただ、こういったメタファーとしての使い方もある」といったように、知識でカバーできる部分と感覚やセンスの領域になっている部分を分けるべきポイントは英語学習の中に数多く存在しています。これをはっきりと分け、そして知識で解決できる部分についてはしっかりとした知識をつけること。それが結局は、感覚的な領域での判断にも良い影響を与えるのではないかと思うのです。