何かを勉強したいと思ったとき、『〇〇 勉強方法』のように検索すると無数に勉強方法が出てきます。どの方法を選ぶのが正しいのか、迷ってしまいますよね。

特に英語を勉強したいと思った場合には、『まずは〇〇から勉強せよ!』や『〇〇しないと英語は使えない!』のような勉強方法も多く、中にはそれぞれ矛盾しているものもあります。例えばあるサイトでは『英語を話せるようになりたいならまずは話すこと! 文法は二の次!』と書いてあるかもしれませんし、その一方で『英語を話せるようになるなら文法が大事!』と書いてあるサイトもあるかもしれません。どうしてこんなことになっているのでしょうか。

まず言えることは、英語を勉強したいと言う人がいたとしても、その人の現在のレベルは様々であるということです。また、暗記の得意/不得意など、個人の能力にもばらつきがあって当然です。では、目の前の『英語はこのように勉強せよ!』と言っているそれは、一体どれくらいのレベルの、どれくらいの能力の人に対して書かれたアドバイスなのでしょうか。場合によっては、『読む人の英語力を上げるのに助力したい』という理由で書かれているのではなく、『PV数を稼ぎたい』や『何かを販促したい』というような理由で書かれている記事もあるかもしれません。

このように乱立する記事の中から『自分のレベルに合っている勉強方法を探す』というのは、地図も羅針盤も持たずに砂漠でオアシスを探すようなものです。オアシスらしいものを見つけることはできるかもしれませんし、それが蜃気楼でなければ一時的に渇きを癒やすことはできるでしょう。しかし、それは本質的な解決ではありません。なぜなら、やがてはその砂漠を抜け出すことが目的であるはずだからです。

この喩えをもう少し使うなら、何かを学ぶというのは、『まずはあのオアシスを目指して、その先にある次の目的地を目指すと良い。歩きにくいと思ったらちょっと遠回りをしても良い』というように、学習者によって『何を目指すべきか』や『どうやって目指すべきか』が違うものなのです。もちろん、砂漠を抜けるためのおおよその方角が決まっているように、全体として辿るべき流れはあるでしょう。しかしどうやってその方向を目指すのが当人にとって良いかは、人によるところなのです。

そうなると、ネット上に無数にある『オススメの勉強方法!』というのは、そのまま鵜呑みにすることはできない情報であるということになります。誰かが上手くいったからといって、自分も上手くいくとはかぎらないのです。言い換えれば、ネット上に無数にある勉強方法は、いずれも"再現性が低い"と言えます。

もちろん、参考にする分には役に立つ情報ということもあるでしょう。「何から手をつけたら良いのかわからない状態とは、なんでも良いから手をつけた方が良い状態のことである」とは森博嗣の言葉ですが、まさにその通りです。何でも良いから手をつけた方が良い状態なら、とりあえず『誰かが上手くいったらしい』方法を試してみるのはアリです。ただ、それが絶対唯一の解決方法では決してないことは牢記せねばならないということなのです。

そして世の中に遍く存在する『効率的な勉強方法』とやらがすべて眉唾物で再現性の低いプラクティスであるとなったら、そんなものを求めても仕方がないということになります。『効率的に勉強したい』とは言っても、万人にとってのそんな方法はないのです。そして自分にとっての効率的な勉強法を見つけるには、やはりトライアンドエラーを繰り返すしかないのです。

では、その一歩はどうすれば踏み出せるのでしょうか。それは多分とても些細なことで、買ったまま埃を積もらせている参考書の一ページ目を開く程度のことなのかもしれません。